学生時代
地元の相生小学校出身
【相生小学校】
私、山口つよしは、地元の相生小学校出身です。
実家は、相生港のそばにあった山口歯科でした。
当時、相生小学校は学年に3クラス有ったので、児童の数も学年で130名ほどいたと思います。毎日、小学校で、朝、昼、放課後に、仲間とドッジボールやソフトボールに明け暮れていました。それが楽しみで学校に通っていたと言ってもいいくらいです。走るのはそれ程早くもありませんでしたが、全般的に運動は得意でした。当時学年で一番早かった子に、今、選挙で大変お世話になっています。
私にとっては、相生小学校が出発点です。小学校の担任の先生が、ある時、この相生港の海は、世界の七つの海に通じている、と言われた言葉が少年の私の心を大きく揺さぶったことを覚えています。いつの日か、世界に打って出たいという秘かな夢を抱き始めました。
当時、先生が、地元相生港にある石川島播磨重工業の造船所を指さしながら、(当時)日本の造船は世界一だと教えてくれたことも、日本は世界をリードできるのだという想いとともに、私の心に火をつけました。
小学校の同級生の皆には、選挙でも大変お世話になっています。お父さん、お母さん方にもこれまで大きな力を頂いてきました。
地元の相生小学校が、私の原点です。
【淳心学院中学校・高等学校】
中学校と高校は、姫路の淳心学院まで毎日電車で通いました。カトリック系のミッション・スクールで、勉学は厳しかったですが、自由な校風の中でテニスにも打ち込み、伸び伸びと成長させて頂きました。
当時の淳心学院には英語の流暢なベルギー人の神父が何人もいて、きれいな英語を教わりました。中学校三年生の夏に、神戸YMCAの交換プログラムでアメリカのシアトルに行き、日米の中高生によるYMCAのキャンプに参加をした際に、国境を越えた心と心の交流の感動を体験したことがキッカケで、歯科医である親の後を継がずに、外交官をめざすことになります。
クラブ活動は、テニス部で、本当に夢中でした。ただ、必ずしも最初から上手ではなく、中学校、高校の初めまではどちらかというと補欠でした。しかし、こつこつ、とことん、毎日練習した成果が高校二年生の秋の新人戦の時に花開き、突如、高校の西播大会で優勝してしまいました。淳心学院の歴史初でした。その後、県大会でも三位、翌年春の西播大会でも優勝しました。
本当はどうしてもインターハイに出場したかったのですが、高校三年生の春は、既に東大文Ⅰを目指して睡眠時間も削って受験勉強態勢に入っており、あと一勝でインターハイ出場というところでまさかの敗戦、大泣きしました。
受験については、高3になる時に文系か理系かを決める際、父親に歯科医を継ぐべきか、あるいは外交官を目指してもよいかと訊ねました。もし父親が歯科医を継げと言っていたら、継いでいたでしょう。しかし、彼は「自分で決めろ。お前はオレが歯科医を継げと言えば多分継ぐだろう。しかし、どんな仕事でも大変だ。きっと将来、こんなんだったら、自分の成りたかった外交官を目指せばよかったと後悔するに違いない。だから自分で決めろ。」と突き放すように言いました。そして、「たとえ跡を継いで歯科医になっても、一緒にはやらないでくれ。親子で一緒にやるのは難しいものだ。お前はきっと『親父のやり方は古い』とか、『間違っている』とか言うだろうから、どこか遠い所で開業するなりやってくれ。」と、ずいぶん寂しい答えでした。私は、「なんだ、親父と一緒にやれないなら、歯科医にならなくてもいいか。」と思い、外交官を目指すことを決心した次第です。
ただ、担任の先生に東大文Ⅰを目指したいと言ったら、「あなたの成績では絶対無理だ。」と断言され、少々へこみましたが、テニスで経験済みの番狂わせをやってやろうと決心し、努力に努力を重ねて運をも呼び込み、奇跡的に現役で東大文Ⅰに合格しました。
【東京大学】
大学時代に一番印象的だった言葉は、入学直後の法学入門の最初の講義で、団藤重光教授が、「高い山ほど、裾野が広い」という言葉です。団藤教授は、「諸君は全国からやって来たわけだが、上京する際に富士山を見た人もいるだろう。富士山は日本で一番高い山だが、裾野が非常に広いことに気付いただろう。高い山ほど、裾野が広い。法律だけ勉強しても、高い山にはなれない。歴史、哲学、宇宙等々、裾野を広くする為に、たくさん書物を読んでほしい。特に小説をたくさん読んで、追体験を重ねてほしい。」と言われたことが、ずっと心に刻まれ残っています。今、国会見学に地元の中学生の人たちが来られた際に、この富士山の話をさせて頂き、それぞれの中学校で先生方が教えてくださる事は、裾野を広くするために全て大事なので、しっかり吸収して頑張ってくださいと伝えています。
次のページ:外交官時代