目次

救国の志をたて、政治家として

1995年10月に外務省を退官、いよいよ裸一貫、政治の道に進むことになります。ただ、外務省を辞めることは、気持ちの上では相当の思い切りでした。大使を目指して外務省に入ってきたのに、その希望を捨て、また、給料、年金、医療保険、看板等々全部捨て、当選するかどうか不明の衆議院議員総選挙に出馬することに挑戦するなど、随分無茶な決断をしたものだと今更ながらに驚きます。現に、1996年の初めての総選挙では80、804票対94、936票で敗れます。

【2000年の総選挙で初当選】

その後、新進党分裂を経て、次の2000年の総選挙において無所属で初当選します。自民党の世襲候補を相手に無所属でよく当選できたと思います。親も祖父も歯科医、地元の身内に政治家は皆無。地盤も鞄も看板も何も無い全くのゼロからのスタートでしたが、多くの方々のご支援を頂いて奇跡的に当選させて頂き、衆議院で地元と日本のために頑張らせて頂いていることは、全て地元のお一人おひとりの熱い想いのおかげであり、あらためて心から感謝申し上げます。

外務省でキャリア外交官として将来をある意味で約束されていたとも言えるでしょうが、私が政治の道を志したのは、頼りない政治では日本が没落しかねない、政治がしっかりする為には政治家がしっかりせねばならない、自分が体を張って頑張らせて頂こう、そして、強い経済を確立しつつ、平和と繁栄を自らつくる気概で、日本を反転攻勢させようとの救国の志が出発点です。

当選直後に当時の自民党幹事長だった加藤紘一先生からお祝いの電話を頂き、自民党へのお誘いもありましたが、当選直後でもあり、そういうわけにはいきませんでした。加藤紘一先生は外務省の先輩であるのみならず、防衛庁(当時)に出向した時の防衛庁長官であったことがご縁で、気にかけて頂いていたのだと思います。

国会に登院後、無所属として、当時の「民主党・無所属クラブ」に所属することにしました。

実は私が2000年に初当選直後、今はもう亡くなられた本岡昭次先生(元参議院副議長)から、「30人以下学級推進法案を作ろう。」と声をかけて頂き、その法案を2001年に衆議院では私が、参議院では本岡先生が提案者となり国会に提出しました。一クラスの規模を30人以下にしようという法案で、一クラスが30人を超えれば、クラスを二つに分けるという考え方です。教師が、児童・生徒に対してきめ細かな対応が可能になるようにとの趣旨でした。野党提出の法案だったので通りませんでしたが、これは私にとって、初めての議員立法だったこともあり、思い入れ深い案件です。

それから20年、2021年度をスタートとして、公立小学校について、一クラスあたりの児童数の上限が40人から35人に引き下げられました。20年かかって、何とか漕ぎつけた格好です。

但し、私としてはこのような外的な教育環境整備とともに、教育においては内面の育成が重要と考えており、例えば、学校で習ったことを全部忘れても何が残っているかが、教育の成果であるとの考え方です。それは言い換えれば「人間力」の育成とも言えるでしょう。これからの時代、AIとか英語の教育が更に重要になるでしょうが、真の意味で世界の中で通用する人材を育てるためには、人間力を育む教育が何よりも大切であると信じており、その充実に努めたいと思います。

【のぞみとひかり】

2000年に初当選後まもなく、当時JR西日本の役員に淳心学院中学・高校及び東京大学の先輩が居られたので訪ねて、相生駅に一時間に一本東京行のひかりを停めて欲しいとお願いしたところ、即OKの返事をもらいました。そこで、つい欲張って、姫路駅にのぞみを停めて欲しいとお願いしたところ、その先輩は、のぞみは県庁所在地に停める(新大阪の次は、新神戸、その次は岡山)のが原則だと応じられましたが、結局、「姫路駅を高架にすればのぞみを停める」という言葉をもらいました。そこで旧知の堀川姫路市長(かつて堀川さんは警察庁から、私は外務省から防衛庁に出向し、共に仕事をさせて頂いて苦労を分かち合って以来、「戦友」としての間柄)を訪ね、姫路駅の高架化をお願いしたところ、市長はそれを引き受けて姫路市議会を説得して頂き、姫路駅にのぞみが停まることになったという経緯が有ります。(尚、そもそも相生駅に新幹線が停まるについてはもちろん先人の方々の大いなるご努力の賜物であることを付言しておきます。)

2001 年 9 月 11 日、当時衆議院議員一年生だった私はワシントンD.C.で議会の若手スタッフの人たちと議事堂の一室で朝食会をしていました。そこに突然、議会の衛士が部屋に飛び込んできて、「飛行機が突っ込んでくるかもしれないから直ちに建物を出て避難してください!」と言う。全く状況が把握できませんでしたが、とりあえず朝食会を途中で打ち切り、表に出たところ、大勢の人が議会や役所などの建物から蟻の行列のようにゾロゾロと出てきて避難している様子が見えました。しかし、空を見上げると、真っ青なきれいな空であり、一体何が起こっているのだろうか?という感じでした。

その時です。国防総省(ペンタゴン)の方向でドーンという音がしたので、そちらに目をやると、煙が上がっているのが遠くから見えました。しかし、一体何が起こっているのか依然全く見当がつきませんでしたが、今から思えば三機目の飛行機が国防総省の建物に突っ込んだ瞬間でした。

その時は訳も分からずにとりあえず避難しながらジョージタウンに向かい、9 月で少し暑かったので、喉を潤したくて店に入いると、皆テレビに見入っていました。二つの大きなビルに飛行機が一機、二機と突っ込んでいく映像が繰り返し放映され、飛行機が突っ込む映像の度に、「オーマイガッド!」とか「ジーザス!」とか、絞り出すような声が聞こえました。一瞬はじめは映画の特撮シーンかと思ったのですが、実はニュースでした。アナウンサーが「テロのようだ」と説明していました。その日のランチを予定して頂いていた柳井俊二大使から電話が入り、「今、情報収集の最中だが、どうも同時多発テロのようだ」とのことでした。時間とともに次第に状況がはっきりするにつれ、衝撃はみるみる大きくなっていきました。

9・11 の事件は、アメリカの人たちにとってとてつもなく大きな衝撃でした。私自身もその場で、アメリカ全体が震えるような感覚を肌で感じたことを今でもはっきりと覚えています。

私は翌日に旧知のホワイトハウスの高官を訪ねることになっていました。彼は私が博士号をとったジョンズ・ホプキンス大学のSAIS(高等国際問題研究大学院)の後輩でした。前日9月11日のうちに彼に電話をして、「今日は大変なことが起こったので、明日のアポイントメントは忘れて頂いて結構だよ。」と言ったら、「いいからホワイトハウスに来い」と言うので、約束どおり翌日に訪ねて行きました。9.11翌日のその日も暑い日で、受付で2,3時間も待たされイライラしていると、彼が真っ赤に頬を紅潮させて現れ、いきなり「これから戦争だ。日本も協力しなければいけない(Japan must cooperate.)。」と堰を切ったように言う。私が「どこと戦争?」と確かめるように訊くと、「ビンラディンがいるアフガニスタンだ。」と言います。私が「日本も協力して戦争しろというのであれば、もう少し説明してほしいが、エビデンスとかどうなの?」と問いかけると、彼はその時点で相当イラついた様子になり、私が更に、「ソ連はアフガニスタンに侵攻して崩壊したけど、アメリカは大丈夫か?アメリカにソ連と同じ運命を辿って欲しくない。テロは軍事力だけでは解決できないのではないか?」と投げかけたところ、彼はイライラしながら、「アメリカの戦力はソ連よりずっと大きいから、三日で終わらせる。」と応えました。私が、「三日で?」と言うと、「三日でダメなら、三ヶ月だ。」と言う。更に私が、「三ヶ月?」と突っ込むと、「三ヶ月でダメなら、三年だ。」とイライラをつのらせながら言いました。彼にしてみれば、9.11の翌日既にホワイトハウスで戦争の打ち合わせに入り、日本担当だった彼は、日本の協力を取り付けるよう指示されていたのでしょう。そんな時に、事件後おそらく最初に訪れた日本人の私が戦争に対して慎重な物言いだったものだから、今から思えば彼がイライラしたのも無理はないと思います。しかし、米軍は 2021 年に撤退するまで、結局二十年にわたりアフガニスタンに駐留し、アメリカにとっては史上最長の戦争になってしまったのみならず、そこからの痛みと苦悩は歴史の流れを変えるほど大きいものになりました。

私の初当選後まもなくの2003年、国立大学を独立行政法人にする法案が提出された際、強硬に反対の論陣を張りました。国立大学を民間の会社の如く独立行政法人にしてしまうと、儲かる講義しかしなくなるのでダメだと主張しました。ノーベル賞受賞者が全員国立大学出身者であることを指摘しつつ、儲かる講義、研究しかしなくなれば、目先のことばかり追うようになり、長い時間じっくりかけてやる基礎研究はできなくなり、ノーベル賞はとれなくなるのではないかと訴えました。しかし、結局その法案は可決されてしまいました。

案の定、当時と比較して、現在、論文数での世界ランキングでは日本の国立大学は中国の大学に大きく水をあけられてしまっています。日本の国家戦略上、イノベーションが極めて重要であり、その観点からは、国立大学法人法の見直しは不可避だと思っています。

【民主党へ合流】

2000年に初当選させて頂いたものの、次の2003年の総選挙で不覚を取って落選してしまいました。負けた選挙後、議席なしでの格好悪いタイミングでしたが、民主党に合流しました。ここから次の総選挙で議席を取り戻させて頂くまでの期間が一番大変な時期でした。

【郵政民営化選挙】

次の総選挙は2005年の郵政民営化選挙でした。小選挙区で勝って議席を取り戻そうと必死で頑張っていましたが、私にとっては超逆風の選挙で、小泉さんの「郵政民営化で日本は良くなる!」との呪文に日本中が乗ってしまった感が有ります。しかし郵政民営化が本当に正しかったのかについては、今から冷静に振り返るといろんな見方が有ると思います。そもそも、当時から郵便局は独立採算で、国からお金が入ってなかったのですから、「郵政民営化」という語自体の正当性すら怪しかったと思います。これは、アメリカが郵貯、簡保の350兆円に手を出したいとの思惑が背景に有ったとの見方が当を得ているのかもしれません。

郵政民営化選挙では、私は大苦戦し、前回の総選挙に比べて得票数では10万3千から10万6千に伸ばしたものの、相手候補は10万6千から11万5千まで伸ばしたため、小選挙区では敗退、これで政治生命は終わりかと思っていたら、なんと比例復活でかろうじて議席を頂きました。

その後一連の民営化が強行されるのですが、それら「民営化」政策が本当に正しかったのか?これまた大いに疑問が有ります。国立大学法人の独立行政法人化について、それが間違いであったことについては既に述べたとおりですし、国立病院についても「独立行政法人」化してしまったことは、大いに疑問です。儲かる医療しかできない仕組みが正しいとは思えません。

【政権交代】

私が政界に移ったのは小沢一郎先生から声をかけて頂いたことがきっかけでした。その小沢先生が当時民主党代表だった2009年の春、あることで直言した際、それを結局聞き入れて頂いて代表を退かれた途端に、民主党の支持率は急上昇し、政権交代まで辿り着きました。

ただ、どうも私と小沢先生とのコミュニケーションがうまくなく、距離が出来てしまいました。もやもやした状態でした。

2011年に東日本大震災の後、復興担当(及び国家戦略担当)の内閣府副大臣を務めていた頃に、当時の野田財務大臣を総理にするのを手伝ってくれとの話が来、中心的に頑張り実現に漕ぎ着けました。詳細の経緯は伏せておいた方がいいと思うので略しますが、本当に中心的に乱暴に実現しました。それで野田内閣の外務副大臣になります。私としては、あれだけやったのだからてっきり外務大臣と思っていたので、おおきなボタンの掛け違いをされてしまった感が有りました。

気を取り直して受けた外務副大臣でしたが、精一杯やりました。当初、野田総理と打ち合わせていたのは、先ずTPP交渉参加に踏み切り、実行力を見せる、続いて公約事項を立て続けに実行に着手する、ということでしたが、TPPについて、私は「交渉参加」のラインで党をまとめていたつもりだったのですが、APECのハワイでの会合に総理とともに出席している間に東京で、「交渉参加のための関係国との協議」ということになってしまって、TPP交渉参加という第一歩で躓いてしまいました。それでも気を取り直して、関係国との協議がまとまったら交渉参加だ、と言って頑張りましたが、当時の民主党の中では力不足でした。

その後は、アジェンダの一つとして消費税上げることについて、総理と打ち合わせ、最後は自分も反対しないが、その前にやらなければならないのは、身を切ること、即ち議員の定数削減、議員の歳費削減(これは時限的にできました)、消費税上げに伴うデフレ効果を消すためのいくつかの大プロジェクト等々だ、ということについて了解を得たつもりでした。しかしそれぞれがうまく運ばず、いい流れをつくれませんでした。特につらかったのは、定数削減でした。事柄の性格上、詳細は控えますが、後述します。ポイントは、消費税を上げる前に、定数削減法案を通すということでした。

外務副大臣時代(2011年~2012年)に、環日本海地域を念頭に置いた「北東アジア連携」についても、戦略的に仕掛けようと動きました。私は、「環太平洋」のTPPがあるならば、「環日本海」もあり得るという発想から、日本、ロシア、中国、韓国、モンゴル、そして必ずしも日本海沿いではないが、特別メンバーとしてアメリカを加えた6カ国での経済連携を構想しました。政府ベースでの議論に先立ち、まず学者によるセカンド・トラックの会合を企画しようと考えました。

2012 年 7 月 24 日に、外務副大臣であった私が主催する形で、これら 6 カ国から学者を招待し、東京・青山の国連大学において、「北東アジア協力に関するトラック2会合」を開催しました。

この2012年の東京会議では、エネルギー協力、そして「北東アジア開発銀行」構想などの議題について、極めて有意義な意見交換を行うことができました。

その後、中国が AIIB(アジアインフラ投資銀行)を設立したのを見ると、私の提唱した「北東アジア開発銀行」のアイディアが先を越されたような感じもしますが、AIIB で全てがカバーできるわけではなく、いずれ「北東アジア開発銀行」が創設されれば、互いに棲み分けができるのではないかと思います。

北東アジア(環日本海地域)における経済連携については、現在に至るまで未だに政府ベースでの交渉は行われていませんので、あの時、セカンド・トラック(政府間協議ではなく民間有識者間の意見交換)とは言え、外務副大臣の主催という形でこの東京会議が開催されたことは有意義であったと思います。2022年以来のロシアによるウクライナ侵攻の故に、この構想を動かすことは難しくなっていますが、将来は必ず重要な戦略課題になると思いますし、その時にこの東京会議の意義があらためて振り返られるだろうと思います。

北東アジア連携の構想には、いくつかの点で大きな意義があります。

第一に、TPP11、ASEAN、RCEPの組み合わせだけでは、アジア・太平洋の中で、北東アジア地域についての連携がミッシング・リンクとなってしまっています。特に、ロシア、モンゴル、そして将来的な課題として北朝鮮についてです。北東アジア連携がそれを補う形になります。

ロシアは APEC のメンバーではありますが、APEC は経済連携の枠組みと呼べるものではなく、議論の場にとどまっています。また、ロシアは ADB(アジア開発銀行)に入いれていませんので、北東アジア連携の枠組みが整備され、「北東アジア開発銀行」が創設されれば、そこに入いれるのではないかと期待していると思います。なお、ロシアは AIIB のオリジナル・メンバーとして参加しています。

モンゴルの場合は、TPP11、RCEPどちらにも参加していないのみならず、APEC のメンバーでもありませんので、それを北東アジア連携でカバーすることは大きな意義があると考えます(ただし、日本とモンゴルとの二国間 EPA の協定は 2016 年に発効しています)。

北朝鮮については、日本としては拉致、核、ミサイルの問題の解決が大前提ですが、将来的に条件が整えば、北東アジア連携の枠組みでアプローチすることも、国家戦略的発想としては有り得ると思います。

第二に、北東アジア連携が実現できれば、それに、既に成立している TPP11(将来的にアメリカも呼び戻したい)、ASEAN、RCEP とを統合することにより、アジア・太平洋地域をカバーするネットワーク連携を築くことができ、この連携をアジア・太平洋地域における平和と繁栄の基盤にするという構想も有り得ます。

第三に、北極海を通る北回り航路が将来的に可能となり、その通行路となる環日本海地域が、今後その地政学的重要性を飛躍的に増すことが予想され、北東アジア連携構想は、その地域をカバーする枠組みとして重要な意味を持つようになり得ます。

北極海の氷が地球温暖化の影響で溶け始めているので、砕氷能力を持った戦であれば、既に北回り航路が可能になっています。日本からヨーロッパに向かう場合、南回り航路でスエズ運河を経由すると 29 日かかりますが、北極海航路を利用すると 19 日で行くことができ、圧倒的な日数の短縮が可能になります。また、北極海航路には海賊やテロのリスクも有りません。

第四に、北東アジア連携を進める中での具体的プロジェクトの進展が、将来的に北朝鮮問題の解決に寄与する可能性も有り得るでしょう。連携構想に当初から北朝鮮を含むことはできませんが、北朝鮮抜きにとりあえず北東アジア地域における個々の具体的なプロジェクトを進展させていくとして、それらプロジェクトが魅力的なものであればあるほど、そこへの北朝鮮の参加意欲が掻き立てられることも有り得ると思います。参加の前提条件は、拉致、核、ミサイルについての対話と解決です。北朝鮮は地政学的に朝鮮半島をブロックする極めて重要な位置に存するので、北東アジア連携構想を誘因として、北朝鮮が安全保障上の脅威でなくなるように導くことの戦略的意義は大きいと思います。

外務副大臣時代に関わった大きな案件の一つは尖閣諸島問題でした。日本として、今後中国と向き合う際の最大の懸案事項の一つでしょう。2012 年の尖閣諸島の国有化を巡る経過は、正直本当に危なかったと思います。崖っぷちのギリギリまで行ったと思います。何とか武力衝突に至らずに済んだのがせめてもの救いでした。

現在はあの当時に比べ、米中対立の激化が加わり、中国との関係は一層複雑になっています。最近、我が国では、勇ましい物騒な論調も見かけますが、まずは日中間において戦争の悲劇は防がなければならないと強く思います。その際に重要なことは、日中間に「コミュニケーション・ギャップ」(情報の食い違い)を生じさせないことです。

その点で懸念するのは、今や中国海警局(中国の沿岸警備隊)が国家海洋局から中央軍事委員会の指揮下に入ったのみならず、さらに 2021 年の 2 月には海警法が制定されて、海警局の船による武器使用が認められ、海警局と海軍との境目が限りなくゼロに近くなっていることです。この点も含めて、尖閣を巡る事態は極めて深刻化しており、それゆえにこそ外交官による問題処理を大前提とし、絶対に「軍人の仕事(=戦争)」にはしないとの覚悟を日中双方が共有しなければならないと思います。そして、日中間で「コミュニケーション・ギャップ」が生じないように、「対話」を尽くすことの重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。

「コミュニケーション・ギャップの防止」を私が特に重視するのは、それが原因で戦争に至った「真珠湾攻撃」の歴史的経験を我々が有しているからです。1941 年に日本とアメリカが「真珠湾攻撃」を機に太平洋戦争に至るまでの大きな原因の一つとして、当時の日米間の「コミュニケーション・ギャップ」の存在が指摘されることがあります。太平洋戦争に至る前、アメリカの議会では、中国に進出している日本に対して、「日本には確固たる立場で当たれば、日本はひき下がる。(If we stand firm, Japan will back down.)」との論調が主流でした。それが対日石油禁輸、あるいは日本の在米資産凍結等に結びつきました。このような日本に対する経済制裁を、アメリカは、イギリス、中国、オランダと協調して行ったので、日本側は、それぞれの国の頭文字をとって、「ABCD 包囲網」と呼びました。その後日本はひき下がったかというと、そうはならず、ABCD 包囲網の打破を目的として掲げ、真珠湾攻撃に打って出たわけです。アメリカとしては日本がまさか真珠湾攻撃に打って出るとは予想もせず、また、日本としてはアメリカがまさか石油まで止めてくるとは予想せず、お互いのコミュニケーションが機能していなかったわけです。日米間の「コミュニケーション・ギャップ」の存在が太平洋戦争に至る大きな原因の一つであったと言えます。これは歴史の極めて重要な教訓です。

そして、アメリカでは、日本についての理解が不足していたこともコミュニケーション・ギャップを通じて戦争の原因になったのではないかとの反省もあり、ルース・ベネディクトの「菊と刀」の執筆に至ったと言われます。

この歴史的な教訓を踏まえ、中国との間で「コミュニケーション・ギャップ」が生じないように、対話を尽くすようにし、何か問題が生じたとしても「外交官」による対処に徹するべきであり、決して「軍人」の仕事にならないようにせねばなりません。

≪尖閣諸島問題の歴史的経緯≫

尖閣諸島についての歴史的な経緯を振り返ると、1972年の9月、田中角栄首相と周恩来首相が日中国交を正常化したときに、田中総理から、「尖閣諸島についてどう思うか?」と中国側に投げかけたところ、周恩来総理からは、「尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。」との応答でした。

そして6年後の1978年、日中平和友好条約が結ばれたとき、鄧小平副総理は、10月25日の日本記者クラブでの記者会見において、記者から「尖閣列島は日本固有の領土で、先ごろのトラブルは遺憾と考えるが、副総理の見解は?」と問われて、「尖閣列島をわれわれは釣魚島と呼ぶ。呼び方からして違う。確かにこの問題については双方に食い違いがある。国交正常化の際、双方はこれに触れないと約束した。今回、平和友好条約交渉の際も同じくこの問題にふれないことで一致した。中国人の知恵からして、こういう方法しか考えられない。というのは、この問題に触れると、はっきりいえなくなる。確かに、一部の人はこういう問題を借りて中日関係に水をさしたがっている。だから両国交渉の際は、この問題を避けるのがいいと思う。こういう問題は一時タナ上げしても構わないと思う。十年タナ上げしても構わない。われわれの世代の人間は知恵が足りない。われわれのこの話し合いはまとまらないが、次の世代はわれわれよりもっと知恵があろう。その時はみんなが受け入れられるいい解決方法を見いだせるだろう。」と応えたことが記録に残っています。

同日(10月25日)に行われた福田総理と鄧副総理との間のやり取りでは、鄧副総理から、「(思い出したような素振りで)もう一点言っておきたいことがある。両国間には色々な問題がある。こういうことは、今回のような会談の席上に持ち出さなくてもよい問題である。園田外務大臣にも北京で述べたが、われわれの世代では知恵が足りなくて解決できないかもしれないが、次の世代は、われわれよりももっと知恵があり、この問題を解決できるだろう。この問題は大局から見ることが必要だ。」と発言し、これに対して福田総理からは、「鄧小平副総理閣下と、世界の問題、日中両国間の問題について率直に意見交換し合えて、非常に嬉しい。感謝する。このようにして両国関係は発展させて行けるであろう。大切な事は、日中平和友好条約の精神を守り抜くことである。両国はこの条約により固く結ばれていること忘れてはならない。この次は、こんなに厳しい日程ではなく、もっとゆっくりして各地を御覧になって頂きたく思う。日中友好のために頑張ろう。」との応答があり、更に鄧副総理からは、「互に努力しよう。」と続きました。

鄧小平副総理からの「われわれの世代では知恵が足りなくて解決できないかもしれないが、次の世代は、われわれよりももっと知恵があり、この問題を解決できるだろう。この問題は大局から見ることが必要だ。」という発言に対して、福田総理は直接には全く応答していません。即ち、尖閣諸島について日本側としては日本固有の領土であるとの認識であり、当時の福田総理は、鄧小平副総理がタナ上げを示唆した際に、それに対して直接に反応しておらず、この記録を見る限り、すれ違いのままの、極めて曖昧な状況が日中間に残されたと言えます。

≪2010年の尖閣事案≫

このような歴史的な経緯の延長線上で、2010 年、民主党政権の時代に、尖閣付近で中国漁船が日本の海上保安庁の船に衝突する事件が起こりました。当時私は、日中間で明らかに外交ルートにおけるコミュニケーションの機能不全を感じ、既に外務省を辞し衆議院議員となっていましたが、急遽、中国外交部の旧知の友人と会うため、北京を訪れました。2010 年の 9 月 30 日のことです。あの時、外交部の友人は悲愴な表情を浮かべながら私に、「山口さん、外交官で解決できなければ、後は軍人の仕事になってしまうのではないですか?」と問いかけてきました。中国側は、日本があえて、場合によっては武力衝突を覚悟しても決着をつけたいというふうに方針転換したのか?軍人の仕事にしようとしているのか?従来の政策を変えたのか?といぶかったようです。当時日中間で外交ルートによる連絡・コミュニケーションがうまくとれず、外交によって解決が図れるかどうかについて私の友人は強い危機感を抱いていたようでした。

中国側の発想は、少なくとも当時は、日中間には鄧小平の「後の世代の知恵に委ねよう」との暗黙の了解が有るという認識に基づいていたようであり、日本側はそれから逸脱しようとしているのか?との思いだったようです。

この事案は結局、那覇地方検察庁が中国人船長の釈放を突如発表するという不可解な形で無理やり幕引きがなされ、後に問題が尾を引くことになります。

≪石原都知事による購入案≫

2012 年 4 月の石原慎太郎東京都知事による突然とも言える東京都による尖閣諸島の購入案が出て来て、2012 年の尖閣諸島の国有化騒動の発端となりました。石原都知事は、ワシントンD.C.での講演で、尖閣諸島を購入した後は、避難港の建設や灯台の整備など、インフラ建設を行う意向を表明しました。

当時私は外務副大臣として古巣の外務省に戻っており、これについて私から中国側に、「東京都は大きいとは言え、あくまで地方政府の一つ、即ち『ローカル・ガバメント』だから、気にする必要はない」と伝え、中国側もそのラインであれば事態は収拾可能と見ていたように思います。

私から、当時の外務大臣、総理には、この石原都知事による購入発言については、慌てずに先ず状況を見極めるべきと進言しました。何故なら、

  1. 本気なら都議会に根回ししていただろうが、していない
  2. 本気なら(尖閣諸島の属する)石垣市に一言ぐらい言っていたろうが、言っていない
  3. 本気ならワシントンで言わず、日本で言っていたはずだ、と思ったからです。

石原都知事の発言が引き金となって、国有化の動きに至ることになりますが、結局、案の定、石原さんはその後、都知事を途中で辞めて衆議院議員に戻り、尖閣購入問題について東京都は途中下車する形になってしまいました。

振り返ってみると、やはり、東京都が本当に購入するかどうか見極めてからでもよかったと思います。石原都知事の購入発言に政府が過敏に反応してしまったのではないかと思えてなりません。

≪国有化の動き≫

私としては、石原都知事の動きについては、慌てずに見極めればよいとの考えであり、当時、外相、総理にそう進言し、納得してもらっていたと思っていたのですが、2012 年 7 月 7 日の朝日新聞の一面で、官邸が国有化の動きをしているとの報道を見て、大変驚きました。私自身はこの動きに全く関わっておらず、経緯の詳細は今に至るも全貌は承知できていませんが、一連の流れの考え方としては、石原都知事が打ち上げた東京都による尖閣諸島の購入構想よりも、国が購入して国有化した方が、中国との関係ではベターだとの発想で進められたものだったようです。

しかし問題は、果たして国が購入するという、いわゆる国有化が本当にベターだったのかということです。私自身は尖閣諸島の国有化については、当時の石原都知事に振り回され過ぎだとの感覚を持っていたので、そもそも国有化が必要だったのかどうかに関してもスッキリしないものが有りました。

≪「土地勘」≫

私は外務省のいわゆる「アメリカン・スクール」(アメリカ研修組)ですが、天安門事件の直後の2年間、北京の日本大使館で勤務した経験があります。この間の実体験と人脈は、私にとってかけがえのない貴重な資産となっています。中国で勤務したことにより、中国を肌で感じる感覚、いわゆる「土地勘」を身に付けることができました。

当時、中国については少しながらも「土地勘」のあった私としては、石原都知事による東京都による購入構想に対処する案としての国有化が中国との関係上ベターであるとは到底思えず、国有化への動きに違和感を感じていました。特に、国有化案に対する中国側の反応について、それほどきつくはないようだとの「情報」が当時言われていたことに強い違和感を抱いた私は、アジア局長に情報の取り直しを依頼し、再度情報を収集してもらったところ、やはり、中国側の反応は柔らかくはなさそうだとの情勢判断も出てくるに至りました。しかし、既に国有化の動きが相当進んでしまっており、事態の軌道修正には遅きに失した感が有りました。

不正確な情報、情勢判断に基づいて、当時の政権は、東京都による尖閣諸島の購入よりも日本政府による国有化の方が、中国にとって受け入れやすいのではないかと考えたわけです。東京都が購入すると、船溜まりを建設するなどいろいろやるということなので、国の所有にして、できるだけ現状維持に近くとどめる、というロジックが通用するだろうと思ったのです。私としては、外務副大臣の立場で、それとは異なる情勢判断を精一杯訴えましたが、「副大臣」では文字通り力及ばずでした。

≪北京行き≫

このような経緯の中で、8 月の初めに外務大臣から、中国に行ってほしいとの指示がありました。当時の私としては、それまで国有化の検討作業から蚊帳の外に置かれたままだったので、スッキリしない気持ちも有りましたし、そもそも経緯には納得いかないことも多かったわけですが、気を取り直して「とりあえず先ずは中国側ととことん意思疎通を図ろう、全てはそこからだ」と自らに言い聞かせて引き受けました。そして訪中する際のアポイント取り付け、及びその際の発言要領作成の作業に入りました。この時点で私は「部外者」から「関係者」になったわけですが、それまでの経緯については、何故か、相変わらず誰に聞いても曖昧な応答しか有りませんでした。

アポイントについては、私自身のルートを通じてある程度取り付け、その後、正式には外交ルートを通じて固めました。

発言応答要領については万全の構えで臨むべく準備しようと思い、先ず、(外務省の)中国課長と一言一句智慧を合わせ、熟考し、文言をつめて原案を作成しました。これについて、参事官、局長、次官、そして外務大臣という形で、外務省内の関係者全てのキチンとしたOKを得るべく決裁書を回したところ、赤や黒、青の書き込みでおよそ原型を留めなくなりましたし、若干文脈も分かりにくくなりましたが、それらコメントをほぼそのまま取り入れる形で用意しました。

8 月 28 日早朝に成田から北京に飛びました。李小林会長の対外友好協会の日程を経て、8月 30 日に外交部の傅瑩副部長と、31 日には戴秉国国務委員と会談しました。

① 傅莹副部長との会談

8月30日の傅莹副部長との会談では、私から尖閣諸島の国有化について、事前に入念に省内決済をとって用意した発言要領を文字通りに読み上げ、それに対して中国側から細部にわたって質問が有り、更にそれに応えるというプロセスが約2時間半続きました。通常私が会談を行う際は発言要領を読み上げるスタイルをとることはありませんが、この会談では、事前に準備した発言要領のラインを 1 センチたりとも外さず詳細に読み上げる形で発言しました。このことは、外務省の公電(外務省の公式な電報)による記録に残っています。

冒頭、私から前置きとして、「今回の私の訪中は、日中間に誤解がないようにし、そこから事態の改善に向けて互いが努力できるように対話させて頂こうとの趣である等を述べました。念頭には、日本とアメリカが太平洋戦争に至るプロセスにおいて、コミュニケーション・ギャップの存在が大きな要因として作用したということが有りました。尖閣諸島をめぐって真珠湾のような歴史の悲劇を繰り返してはならない、との強い思いからそのように述べました。

2時間半にわたる傅莹副部長との会談における最大の論点は、現状維持か変更か、ということでした。私からは、日本のシステムでは、政府が島の所有者に対して東京都に売却するなと命じることも、東京都に対して購入するなと命じることも、できない。そこで、東京都が購入して現状を大きく変更するような事態を回避するために考え出した策が、「国による購入」というアイデアなのだ、と当時の日本側の立場を説明しました。

ちなみに、国による島の所有については、(尖閣諸島のうち)大正島は当時既に国有化されており、それは石原都知事が島の購入を言い出す前からのことである旨を会談の中で言及し、ならば今更国有化について殊更に神経質にならなくてもよいではないか、というポイントも述べました。

日本側の基本的ロジックは、都が購入するより、国有化の方が現状維持に近いということでした。ただ、容易に中国側の納得が得られるとは思わず、何度も会談を重ねなければならないと覚悟していたので、会談では常に冷静に誠実に対応することを心がけました。そのことは先方も感じたとは思いますが、やはりスッキリした納得は得られなかったのではないかとの感触でした。

中国側からは、尖閣に関する従来のポジション(領土問題は存在する)があらためて述べられた上で、中国にとっては島の購入それ自体が現状の変更であり、いかなる形でも受け入れられないとの立場が述べられました。これまでどおり、問題の凍結と棚上げであるべきだというのが中国側の基本的な立場でした。

これらのことは当然予想されたことで、中国側とは繰り返しやり取りをせねばならないと思っていましたし、先方もそう思っていたことでしょう。私としては、まさかこの時の会談がやり取りの最初で最後になるとは予想すらしませんでした。

② 戴秉国国務委員との会談

傅莹副部長との会談を終えた30日の深夜に、私の秘書官から、翌31日の11時から戴秉国国務委員と釣魚台で会談を、という連絡が中国側から入った旨の報告が有りました。戴秉国国務委員は一対一の対話という形にこだわり通訳以外の同席が認められないということで、同行の中国課長が異例にも通訳として入ることになりました。彼が会談直前に少し緊張気味に、「何十年ぶりかで通訳するので心もとないですけれど、歴史的な会談になるでしょうから頑張ります。」と言うので、私からは、「大丈夫、心配いらないよ。いい対話ができると思う。」と言って、安心してもらいました。会談が終わった時は彼もホッとした表情で、「すごい内容だったですね。」と感想を言ってくれました。彼には立派な通訳もして頂き、また正確な記録も残して頂き、心から感謝です。

戴秉国国務委員との会談は、11時からということだったので、昼食前の2,30分かと思っていたら、1時が過ぎても終わらず、2時頃まで、結局ランチ抜きで約3時間、じっくりいろいろなことを話しあいました。

冒頭、私から総理親書を手交しました。尖閣諸島の国有化という極めて重要な案件について中国側と話すのですから、日中間の気持ちのすり合わせに齟齬が生じないようにしたいという、日本のトップの意思を伝えるのだという趣旨を明確にする意味で総理親書を持って行きました。親書の文言は極めて一般的なものとして起案し、尖閣の国有化に関わる実際の内容は、自らの口で伝えようと思いました。親書は外務省内の決済を正式に終えた後、官邸で官房長官、総理の決裁も得たものを、大事に脇に抱えて北京に向かいました。

私が持って行った総理親書には、隣国どうしの日中間において、時として意見の相違や摩擦が起きることもあるかもしれないが、そのような時こそ、両国は連絡を密にして意思疎通を図り、誤解に基づく悪しき事態の拡大を避けるとともに、日中関係の大局が影響されないようにしていこうとの趣旨を書いてありました。

会談では、総理親書に目を通した後、戴秉国国務委員から、「尖閣諸島の問題については昨日「傅莹副部長と詳細な話し合いが行われたと報告を受けているので、今日は深い哲学的な対話をしたい」と切り出してきたので、将来の日中関係、世界の地政学等々、極めて深く広い話題を縦横無尽に哲学的に、二人とも時の経つのも忘れたように話し合いました。

私からは、外務省出身の政治家の大先輩である吉田茂が外交官としての中国勤務の経験も踏まえて、ダレスに対して、「赤くなっても黒くなっても、中国は中国だ。」と喝破したことにも触れつつ、日本とアメリカとでは中国に対する向き合い方にも異なる特徴が有り得ること、また、イギリスの歴史学者であるアーノルド・J・トインビーがいずれ世界の中心は西から東に、大西洋から太平洋に移るだろうと言ったことに言及しつつ、日本と中国の役割は大切だということを述べました。

更に、孫文が戦前の日本に対し「王道」が大切であると説いたことを紹介しつつ、今、日本と中国で「王道」を大切にすべきと思うが、中国は西洋の「覇道」に傾いているのではないかと述べました。そして特に、今回の訪中の重要な目的として、日本と中国の間でコミュニケーション・ギャップが生じないように高いレベルで心合わせに努めたいと願っていること等を話しました。

会談の最後の方で、戴秉国国務委員から、せっかくだから島についても少し話そうということで、「今日、山口副大臣に会うということで、胡錦涛国家主席ともよく打ち合わせてきた。」として、尖閣諸島について提案が有りました。その具体的な内容は、あれからまだ10年そこそこしか経っていない現在、詳細な紹介は控えるとして、先方の提案について私からは、「日本政府のこれまでの立場からは、どの点も受け容れられない、ということで分かっておられると思うが、持ち帰り、大臣、総理にも報告する。」と述べました。それだけです。当然のことながら、譲歩などしませんでした。あの時の中国側の基本的なポジションは、日本側の考え方についての私からの説明に対して、尖閣諸島の購入は、都知事であろうと日本政府であろうと、現状変更であり受け入れられないということでした。その上で、私流に表現すれば、鄧小平の時以来の日中間の暗黙の理解を大切にするというふうにしてはどうか、ということでした。日中間の言い分の間に隔たりは有りましたが、先ずは、お互いのポジションを言い合うということで、交渉はキャッチボールなのだから、中国側がそのポジションを述べるのはそれはそれで当然だと思いました。外交なのですから。

あの日の会談を通じ、戴秉国国務委員からは、尖閣についてそれまでの世代による共通認識と了解を大事にすべきであると、繰り返しの強調が有りました。何故、日本政府は東京都知事をコントロールできないのか、日本政府が決めればいいではないか、との強いフラストレーションも示されました。私からは、これまでの政策を変えるつもりはないこと、及び、今回も現状維持に近く保つことを最優先に努めていること等を述べました。また、共産主義体制とは異なり、日本のシステムでは、島の所有者に対して東京都に売るなと命令できないし、また東京都に対して島を買うなと命令することもできない。東京都が購入すると現状を大きく変えてしまいかねないので、それを回避するために国が購入しようとしているのだと説明しました。また、尖閣諸島のうち大正島は(当時)すでに国有であり、今回の対応はそれと同じ形にするに過ぎないとも付言しました。これらに対して先方は、小さな変更も含めて現状をいじることはダメだとの反応でした。

今あらためて振り返っても、この戴秉国国務委員との会談は、全体として極めて深く哲学的で、ビジョンあふれる内容だったと思います。戴秉国国務委員からは、また会おうとの言葉も含めて、二人とも、ここからじっくり日中間でやりとりが行われ、何度も対話が繰り返されながら、隔たりを埋めていく作業がなされることになるだろうとの、当然とも言える確信が有りました。私としては、大きくて困難な問題ではあるが、針の穴ほどのかすかな解決の道を見つけるべく最大限努力しようとの思いでした。重要な案件なのだから、この会談をスタートとしてキャッチボールが続くだろうと、私も中国側もとらえていました。

この戴秉国国務委員との会談は、正式な公電(外務省の公式な電報)の形で大臣、総理、官房長官にも報告され、私自身も帰国後、大臣、総理、官房長官に直接報告し、中国側から提起された点について、NOならNOと中国側に回答が必要である旨を強調し報告しました。譲歩的な発言は一切していません。

しかし、帰国後まもなく、尖閣諸島国有化の閣議決定が9月11日にあるかもしれないということが聞こえ、大いに驚き、我が耳を疑いました。戴秉国国務委員と会談した私に何の連絡もないというのもおかしな話だと思いましたが、そもそも私と戴秉国国務委員との会談における先方からの提案に対して、NOならNOで一応は回答すべきであるのに、それもしていないままだし、NOの返事をしたとしても、そこから更にやりとりを重ねることが必要だと思ったからです。

≪官邸での総理とのやり取り≫

2012年9月10日の月曜日、翌日の火曜日の閣議の前日に、私は官邸に総理を訪ね、小一時間じっくり話し、「仮にも昨日(9日)、ウラジオストクで、立ち話とはいえ、総理は胡錦濤(こきんとう)とのきついやり取りが有ったにもかかわらず、戴秉国からの私への提案に対して回答をしないまま、明日、国有化の閣議決定をするというのでは、村の自治会だと喧嘩になるでしょうし、国どうしだと喧嘩は戦争になりかねません。事態は混迷し、数年は本格的な首脳会談もできなくなり、お互いにとって不幸なことになります。現時点で胡錦涛は権力闘争の真っ只中にあり、それでは面子をつぶすことにもなります。中国ともう少し話しを続けさせて頂きたい。(自分は)国有化に最終的には反対しないようにするが、東京都が購入するにしても都議会の手続きが12月までかかるというのだから、あと2,3ヶ月は有るので、明日の閣議決定は先に延ばして、自分に時間を頂きたい。たとえ合意に至らず物別れに終わるにしても、話は尽くさせて頂きたい。」と訴えましたが、総理は全くの無言でした。そこで、「総理、沈黙は承諾の印ですか?」とまで尋ねましたが、それでも無言で、私の真意が全く伝わらないなという感触を抱いたまま、最後に、「総理、よろしくお願いします。」と言って退室するしかありませんでした。

その日(9月10日)の夕、私の心の内に、「まだ時間が有る」とか、「真珠湾、真珠湾」という言葉が何度も浮かびました。確かに、次の朝に開かれる閣議までにはまだ時間が有る。まさか、この尖閣問題の処理如何では真珠湾のような武力衝突にもなってしまうのだろうか、との恐怖にも似た危惧を感じたのを覚えています。

その夜と翌朝9 月 11 日の閣議直前、外務大臣から電話が有り激しくやり取りしたのですが、結論は変わりませんでした。

≪尖閣諸島国有化の閣議決定≫

私が8月31日に北京で会談した際の戴秉国国務委員からの提案について、たとえそれが日本側として受け容れられないものであるとしても、一応「回答」はせねばならない、でなければ外交が成り立たない、その旨を、総理、外務大臣、次官に強く促したのですが、結局中国側との充分なやりとりに至らぬままに、9月11日、尖閣諸島の国有化が閣議決定されてしまいました。すっかりはしごを外された形となり正直憤りすら覚えましたが、泥は私ひとりで全てかぶった格好です。

≪9月13日の記者会見≫

尖閣諸島の国有化が9月11日の閣議で決定されてしまった後は、私としては、日中間の武力衝突という日中双方にとって最悪の事態を回避することに全神経を集中しました。当時、尖閣諸島の国有化という用語を避け、「尖閣諸島の取得・保有」という表現が使われましたが、実質は国有化です。

9月11日の閣議決定の後、13日に、外務副大臣としての私の定例の記者会見において、私が伝えようとしたメッセージはハッキリしていました。「この案件は外交官の案件として処理します。絶対に軍人の案件にはしません。外務省の案件として処理します。防衛省の案件にはしません。」と、何度も、明瞭に北京に届くようにとの気持ちで繰り返し言いました。北京には「聞こえた」はずだと思います。結果として、中国側として海軍は出さず海警局の船に、日本側も海上自衛艦ではなく海上保安庁の船にとどめました。(但し、中国側については、海警局が今や中央軍事委員会の指揮下に入ったということで、この点が曖昧になっています。)軍艦どうしだと、文字通り一触即発、武力衝突となり即戦争にエスカレートしかねません。私は、何としても武力衝突あるいは戦争を防ぎたいとの一心でした。閣議決定後、中国各地で日系のデパート等が焼き討ちにあう等の暴動が続き、中国在住の日本人の不安は大変なものだったと思います。しかし、その後、とにもかくにも武力衝突も戦争も回避できていることは不幸中の幸いであったと思います。

≪悪意の流言≫

なお、この時期、私が戴秉国国務委員と二度目の会談をし、譲歩するかのような発言をしたのではないか、との無責任な噂や見方が一部で有ったようですが、それは事実無根であり、当時の関係者は皆知っていることです。

≪佐藤優さんの論稿≫

尖閣諸島の国有化をめぐる顛末について、「中央公論」の 2012 年 11 月号に元外交官であり作家の佐藤優さんの論稿があります。一部引用させて頂きます。

「東京都による尖閣諸島の取得よりも日本政府による国有化の方が、中国にとって受け入れやすいと外務省は考えていた。この見通しが、根本的に誤っていたのである。ただし、日本外務省で、この時点での国有化が、今後の日中関係に本質的悪影響を与えることに気づいていた人が、少なくとも一人いた。山口壮(つよし)外務副大臣だ」(中央公論、2012年11月号より)

更に佐藤優さんは、9月13日の私の記者会見について、「山口氏が末尾で述べている「もう少し対話を重ねたかったなというのが私の正直な気持ちです」という発言から、九月十一日の閣議で、魚釣島など三島の購入に関する政府決定を遅らせたならば、中国側に十分な事前説明を行って、事態を紛糾させることにならなかったという想いが滲み出ている。」と記されています。正直そう考えていました。

≪「核心的利益」≫

2012年9月の尖閣諸島国有化の翌年の2013年には、中国は尖閣問題を「核心的利益」と表現するようになりました。それ以降、中国はこの表現を続けています。これは、尖閣諸島の現状を実力によって変更することも辞さぬことを中国が国策として決定したということを示しますが、もちろん日本としては認められません。

現在、尖閣諸島沖では中国公船の出没が執拗に続いています。尖閣領海に侵入した中国公船が日本漁船に接近、追尾するという事案も発生しています。海上保安庁によると、2022 年尖閣諸島沖の接続水域で確認された中国公船は延べ1000隻以上で、過去最多を記録しました。2023 年1~4月は381隻で、前年同期間の286隻を上回るペースとなっています。領海侵入は 2023 年1~4月で延べ28隻に上っているとのことです。

≪二階・習会談≫

その後、2012年12月の総選挙を経て私は二階俊博先生と一緒に仕事をさせて頂くようになったわけですが、私としては、武力衝突への危惧がずっと頭から離れませんでした。2015年5月、当時自民党総務会長であった二階先生が3000人の方々と訪中されることになり、私も同行予定であったので、その一か月前の四月に、私は、旧知の李小林対外友好協会会長を密かに訪ね、「二階先生訪中の際には、是非、習近平主席との会談について力をお貸し頂きたい。」とお願いしました。先方からは、「約束は難しいが、やってみる」とのことでした。

習近平主席との会談が成り立つのか、内心不安でしたが、二階先生との会談の場に、習近平主席は姿を現しました。その時、会場には「おー!」という地響きのようなどよめきが起こったのを覚えています。私は心中、「とりあえず戦争は防げた。やり残した宿題を二階先生に片付けて頂いた」と密かに思いました。

≪「コミュニケーション・ギャップ」を防ぐための対話が重要≫

2012年の尖閣問題の推移を今振り返って特に気になるのは、当時日中間において「コミュニケーション・ギャップ」が明らかに存在したにもかかわらず、それを手当てする努力が足りなかったことです。双方でもっと努力の余地があったのではないかと思います。

既に触れたように、1941年に起こった日米間の太平洋戦争開戦の大きな要因の一つが日米間の「コミュニケーション・ギャップ」の存在であったことを想起するなら、2012年当時の日中間における「コミュニケーション・ギャップ」の存在が武力衝突に至らなかったのはラッキーだったとしか言いようがありません。本当に危なかったと思います。今後に向けては、このような「コミュニケーション・ギャップ」が生じないように日中間で努力しなければなりません。

2012年のあの時、日本側の意図は、尖閣諸島を敢えて国の所有にすることにより、できるだけ現状維持に近い状況を保つようにしようというものでした。日本側としてはその辺のロジックについて、もっと辛抱強く更に対話を重ねる努力はできたろうし、すべきであったと思います。

また、日本政府としては、中国側からの提案に対し、NOと返事をした上で、「東シナ海に領土問題は存在しない」という原則を変えることはできないとしても、日中両国に尖閣諸島の領有に関して「見解の相違」が存在することを認めて、対話を重ねることはできたはずでした。現にこのロジックは、その後の日中間のやり取りの中で使われ、その後、日中首脳会談に繋がりました。

対話を重ねることにより、中国は尖閣諸島に関する物理的な力の行使を控えること、そして日本はとりあえず話し合いに応じることについて合意し、そしてその間、必要であれば尖閣諸島周辺の漁業などの海洋の平和的利用について、日中双方で協定の締結などの努力をする等の暫定的な合意にまで達することも不可能ではなかっただろうと思います。それが外交官らしい仕事のやり方だったでしょう。そこまで至らずに、対話の道が閉ざされたことは残念でなりません。

さて、2018年には、海警局が国務院(政府)管轄の国家海洋局から、人民武装警察部隊(武警)に編入され、中央軍事委員会の指揮下に入ったといいます。海警局と海軍の境目がなくなったということが危機のエスカレーションを早めてしまうことになりかねず、懸念されます。

また、2021 年 2 月には、中国では中国海警局の武器使用を認める新たな「海警法」が施行されました。この法律により、日本の領海内である尖閣海域に日本の漁船が入った際に、中国海警局の船が武器を使用する可能性が高まったということであれば、極めて危険だと言わざるを得ません。

中国は尖閣について、日本の意図について見誤り、無謀にも軍事力によって「解決」しようとするならば、それは中国が想像するよりもはるかに強い日本の反応を招き、予想以上に深刻な結果を招くであろうことを知っておくべきです。

日中間のコミュニケーション・ギャップが原因で悲劇を招かないようにしなければなりません。太平洋戦争の悲劇が再び起こらないよう、中国と粘り強くコミュニケーションを保たなければなりません。相手が何を考えているかについての勘違いによって、軍人の仕事になってしまわないように、忍耐強く対話を重ねなければなりません。対話を重ね、外交官によって問題を解決し、絶対に軍人の仕事にしないという原則を守ることが何よりも重要です。

同時に、自衛隊と中国軍との間で予期しない事態が起きることを回避するために、危機管理システムとして、日中間の海空連絡メカニズムを徹底して整えておくこと等、今後、信頼醸成のシステムを整備することも極めて重要であると考えます。

【靖国神社について】

外務副大臣時代に具体的に関わったということではありませんが、中国との関係では、靖国神社のこともあります。この問題については、アメリカも強い関心を持っていますし、韓国からも意見が表明されることがあります。この問題は、いわゆる東京裁判(極東国際軍事裁判)をどうとらえるか等の複雑な要素も絡んでいますが、一つのアプローチとして、靖国神社が元々「戦場で戦死」した人の魂を祀るための神社であるという点に着目して、その原則の上に立って考え方を整理する、というのは如何でしょうか。

一例を挙げると、明治天皇が崩御された際に自宅において夫婦で自害した乃木希典大将は、戦場で戦死したわけではないので、靖国神社には祀られていません。別に神社をつくって祀っています。東京・赤坂の乃木神社です。また、日本海海戦の英雄である東郷平八郎元帥も、戦場で戦死したのではなく、膀胱ガンで亡くなったので、別に神社をつくって祀っています。東京・原宿の東郷神社です。

議論となっている一番のポイントは、A 級戦犯ということで処刑された人たちが合祀されていることについてです。この問題については、その時々の靖国神社の宮司の考え方が決定的な影響力を有しているように見えます。

1946年から32年間宮司を務めた筑波藤麿は、旧皇族であり、A級戦犯合祀を極力先延ばしをしようとしたと言われます。しかし1978年3月に筑波が急逝し、後任として宮司に就任した松平永芳は、イデオロギー的に東京裁判否定論を信奉したと言われており、1978年10月、A級戦犯を秘密裏に合祀しました。この経緯からすると、A級戦犯の合祀には、東京裁判に関する政治的な見方の問題が絡んでいるように見えます。1978年の合祀は翌1979年に至って新聞報道されました。それ以降、天皇陛下は靖国神社に行っておられません。

A 級戦犯合祀の問題については、アメリカが実は相当強い意見を持っています。アメリカの観点は、東京裁判の結果を受け入れないのであれば、それを前提として成り立つサンフランシスコ講和条約に基づく日本の主権回復、その後の日本の国際連合加盟など、日本をめぐる戦後の国際秩序は全部ひっくり返ってしまうという論理で、東京裁判の結果を否定する考え方を「修正主義」と呼び、非常に警戒しています。

東京裁判について、判決が正しかったかどうかの議論にさかのぼることは、昭和天皇への戦争責任の議論にもつながりかねません。A 級戦犯の一人にされてしまった外交官出身の広田弘毅は、自分が責任をとらなければ天皇陛下へ戦争責任が及びかねないとして、自らの命を差し出し、天皇責任論への幕引きをはかったのではないかと思われます。

ちなみに、広田弘毅は吉田茂と外務省の同期入省です。戦前、広田弘毅が陽の当たる坂道を歩き総理にまで登りつめたのと対照的に、吉田茂は中国でいわばドサ回りをしていたし、最後は英米との連携を説いて憲兵隊に捕まり、牢屋にまで入れられました。しかし戦後これが幸いします。人間の運命は、何が良くて何が悪いのか、本当に分からないものです。まさに「禍福はあざなえる縄の如し」です。憲兵隊にとっちめられた吉田茂でしたが、それが戦後はGHQによって「自由主義者」と見なされることになり、鳩山一郎の追放によって思いがけず総理になりました。

他方、広田弘毅はA級戦犯となって刑場の露と消えてしまいます。GHQは文官として近衛文麿を当初はターゲットにしたようですが、近衛が自決した後は、不幸にも広田がターゲットとなってしまいました。広田弘毅の心情は如何なるものであったろうかと察します。外交官出身の政治家として、広田弘毅は軍部による戦線拡大に反対しましたが、当時の軍部の勢いはそれをものともしなかったでしょう。広田弘毅にしてみれば、戦線拡大を止めようと努めたのに、皮肉にも、戦線拡大を止められなかった「責任」を取らされる格好で極東国際軍事裁判にかけられてしまったということです。その意味で広田をA級戦犯と呼ぶこと自体、私には抵抗が有ります。

城山三郎の名著「落日燃ゆ」によれば、広田弘毅は極東国際軍事裁判にかけられても一言も弁解がましいことは言わなかったといいます。さぞや割り切れない気持ちもあったのではないかと思いますが、広田の心中を察するに、天皇陛下に対して戦争責任の議論が及ばないように、首相だった自らの命を差し出したのではないでしょうか。その意味で、極東国際軍事裁判の判決について今またその当否を蒸し返す議論は、あの世に行ってしまった広田弘毅をして、何のために自分が命を差し出したのか分からなくなるから控えてほしいとの思いにさせてしまうのではないでしょうか。

このような観点から、私は歴史の修正主義とは距離を置いています。東京裁判の否定という、歴史の修正主義を突きつめれば、昭和天皇の戦争責任が問われることになりかねません。

どう考えても、戦後、東京で処刑されたA級戦犯の人たちについて、「戦場で戦死」したと言い切るのは無理があると思います。他方、私は祀るなと言うのではありません。乃木大将や東郷元帥と同じように、別に神社をつくって祀るというやり方で、その神社は「平和神社」なり「昭和神社」なりと命名しては如何でしょうか?そうすれば、天皇陛下が靖国神社参拝を再開される可能性も出てくるのではないでしょうか。

アメリカからは、靖国神社の敷地内にある「遊就館」についても、懸念が示されることがあります。特に、戦争全体の歴史観に関する記述についてです。しかし、アメリカとしては、英霊に関する遺書など個人に関わるものまで懸念を示しているわけではなく、アメリカからすれば戦争全体の歴史観について主観的に少し決めつけたように解釈し得る部分が気になるようです。ならば、遊就館から戦争全体の歴史観に関するものは切り離し、太平洋戦争の客観的記録を後世に伝えるための資料を展示する博物館として、戦争に至る当時の日本の論理を客観的に紹介する、あるいは、戦地で実際に起きたことを客観的に示す、等であれば、「遊就館」についてのアメリカの懸念は手当てされるでしょう。そこでは、原爆投下の悲惨な事実も客観的に示してもよいでしょう。

【北朝鮮問題の解決に向けて】

北朝鮮問題をどう解決するかについても思考を巡らせることが国家戦略として非常に重要です。

私自身の関わりとしては、2011年末に金正日総書記が死去した直後の2012年初めに、外務副大臣だった私のところに、中国から友人が来訪、その上司が北朝鮮ともつながりが深いので、その友人に、私がどのように北朝鮮との問題を解決しようとしているかについて、上司から北朝鮮側に伝えてほしい、と依頼しました。事柄の性格上、ここで詳細は控えさせて頂きますが、結果として北朝鮮側にメッセージは伝わり、拉致問題を含む形で8月に北京において日朝の外務省間で課長レベルで交渉のための会合が開催されるに至りました。そして9月17日に次は局長レベルに上げて同じく北京で協議することになりました。詳細は控えるとして、私は、拉致問題に区切りがつくことに確信を持ちましたが、あまりの嬉しさにそれを口外してしまわないように、自らに「秘すれば花なり」と世阿弥の言葉を心の中で唱え続けました。

しかし、尖閣諸島問題で、前述の如く、私と戴秉国国務委員との会談で中国側から定義された点について、ノーならノーと返事すべきところを無視し、9月11日に(私の必死の抵抗空しく)国有化の閣議決定を強行してしまったものだから、中国側が、9月17日に北京で予定されていた日朝間の局長級の協議について断ってきたので、その時点で北朝鮮との交渉は一旦途切れてしまいました。本当に惜しかった。悔しくて残念でなりません。

その後、2014 年 5 月に、日朝政府間協議がストックホルムで開催され、「ストックホルム合意」として拉致問題に関する「再調査」の合意に至り、その後、2014 年 7 月、9 月、10 月と協議・会合を重ねましたが、2016 年 1 月に北朝鮮による核実験が行われたことに対し、日本が制裁を実施したことを受け、2016 年 2 月には北朝鮮において調査委員会が解体されてしまいました。それ以後、北朝鮮との対話は止まったままです。

米朝間において、トランプ大統領の時代に金正恩総書記と対話しようとの気運の高まりに伴い、日朝間においても何らかの対話の進展が見られるかと若干期待が膨らみましたが、結局米朝間で何も実質的な進展は見られず、日朝間でも何も進みませんでした。

私が2023 年 1 月にワシントンD.C.を訪問し、北朝鮮について上下両院の議員、国務省及び有識者と意見交換を行った際の議論も踏まえると、北朝鮮との話し合いをこの先どう進めるかについては、最大のポイントはもちろんどのように北朝鮮を核放棄の合意に持って行けるかですが、その際の手掛かりは、「体制保証」と「経済協力」です。

例えば、韓国は、北朝鮮が先ず核放棄をすべきであり、経済協力と関係正常化の話はその後だと主張しますが、北朝鮮としては、先ず「体制保証」がなければ核放棄はできないというところでしょう。そもそも北朝鮮が核を開発したのは体制保証のためと考えられますから、体制保証と引き換えにならば、北朝鮮は核放棄ができるのではないかとのロジックが成り立ち得ます。

この文脈で私が注目しているのは、2016 年7月6日の北朝鮮「政府」スポークスマン声明です。その声明には、「朝鮮半島の非核化は、偉大な領袖と父なる将軍の遺訓であり、敬愛する金正恩同志の領導に従って進むわが党と軍隊、人民の揺るぎない意志である。」とのくだりが有ります。在韓米軍の撤退等を条件としてではありますが、「朝鮮半島の非核化」に言及しており、条件が整えば、北朝鮮として核放棄が有り得ることを示していると解釈し得るのではないでしょうか。

もちろん、日本としては、北朝鮮問題においては拉致問題をどうしても解決しなければなりません。しかし拉致問題を解決するためには、逆説的ではあるのですが、拉致問題だけ解決しようとしても物事が進んでいないように思います。そうではなく、全体を一括りにしたアプローチが必要であると思われます。日本の公式の立場である、拉致、核、ミサイル問題の包括的解決のためには、北朝鮮側の関心は「体制保証」と「経済協力」であることを念頭に、これら全てを一括して同時にテーブルに載せて対話を進め、2002 年の日朝平壌宣言で言及されている国交正常化交渉の「合意」前には、最終的に全てが解決されている、というイメージが必要だと思います。

そのようなプロセスの一環として、また、コミュニケーション・ギャップを極力防止し、不測の事態を避けるためにという趣旨で、現在の北朝鮮による多数のミサイル発射がおさまった後にという条件付きではありますが、北朝鮮への連絡事務所設置を検討することも戦略的に有り得るかもしれません。

ちなみに、北朝鮮と国交がある国・地域は 163 あり、その内、北朝鮮に大使館がある国・地域は 25 あります(インド、インドネシア、中国、カンボジア、パキスタン、ベトナム、マレーシア、モンゴル、ラオス、キューバ、ブラジル、ベネズエラ、英国、スウェーデン、チェコ、ドイツ、ブルガリア、ポーランド、ルーマニア、ロシア、イラン、シリア、パレスチナ、エジプト、ナイジェリア)。

国交がある国が 163 もあるというのは少々意外かもしれません。上記の大使館がある国・地域に加え、オーストラリア、オーストリア、ベルギー、チリ、カナダ、コロンビア、デンマーク、フィンランド、ギリシャ、ハンガリー、アイルランド、イタリア、ヨルダン、ケニア、クウェート、リヒテンシュタイン、ルクセンブルグ、メキシコ、ネパール、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、オマーン、カタール、シンガポール、南アフリカ、スペイン、スリランカ、スイス、タイ、トルコ、アラブ首長国連邦などがその中に含まれます。

国交を結んでいないのは、我が国以外には、アメリカ、韓国、台湾、フランス、ポルトガル、モナコ、イスラエルなどで、数ではむしろ少数派です。

2012年の大きな流れの一つは、消費税を上げる件でした。税と社会保障の一体改革というタイトルではありましたが、税と言っても消費税以外は議論されませんでしたし、社会保障として年金・医療・介護・子育ての未来像的な議論もありませんでしたので、財務省の消費税増税議論に乗っかってしまったような感が有りました。私は、消費税を上げるなら、その大前提として、身を切る意味で、衆議院議員の定数を削減せねばならないとの意見でした。水面下で相当動いて密かに協議、相当に心合わせも進んで民主党の永久政権まで見えていましたが、結局その動きは無視され、議員定数削減なしに、消費税だけが上げられてしまいました。それにより民主党は分裂(小沢グループの脱退)するし、その後の2012年末の総選挙では案の定大敗し再び自民党に政権が戻ることになります。

前述のとおり、消費税を上げる前に議員定数の削減をしなければ総選挙は負けるとの私の懸念は残念ながら的中してしまい、案の定、2012年の総選挙で民主党は大敗、自民党に政権が戻りました。尖閣、北朝鮮、定数削減等々、私の考えがことごとく否定された結果とも思えてならかなったところに、投票日の二日後に二階俊博先生から連絡が有り、「もういいだろう、こっちに来たら」ということでした。とは言うものの、さすがに総選挙直後のその時は直ぐにウンと言うわけにはいきませんでしたが、2,3か月後に、地元の県議で兵庫県連の幹事長をされていた山口県議から、同様の声がかかり、そこから、紆余曲折は経ながらも、自民党合流に至りました。2014年の総選挙の後、2015年の初めに、当時の幹事長だった谷垣禎一先生を訪ね入党届を提出しました。

二階俊博幹事長とは新進党からのご縁ですが、2015年に自民党に合流した後、二階先生と行動を共にし、二階先生からの直接の指示を受けて、11月5日の日本の津波防災の日が世界津波の日として国連で制定されるよう、各国の同意を取り付けるために、当時の二階派の国会議員の同志も動員して在東京の大使館を全て回り、その結果、2015年12月に国連において、和歌山の「稲むらの火」の史実にちなむ11月5日が「世界津波の日」と定められるに至りました。これは、新たな世界の仕組みについて、日本が提案し実現に至った良い例であったと同時にこの事例は、必ず今後に活きると思います。

11月5日は「津波防災の日」「世界津波の日」 – 内閣府

2016年、二階俊博幹事長(当時)の下で、自民党内の「部落問題に関する小委員会」の委員長として、部落問題の解消に向けての法律案を「議員立法」としてまとめ、年末に国会で成立、12月16日に公布に至りました。

「部落差別解消推進法」は、部落差別は許されないものであるとの認識を明確にし、部落差別の解消を推進し、もって部落差別のない社会を実現しようという理念を法律化したものです。昨今のインターネット上における書き込み等の新たな形態の差別的行為についても、法務省等がアクションを取る際の「根拠法」になり得ると思います。

この法律に先立つ経緯としては、2002年に人権擁護法案が内閣提出の法案として提出されましたが、衆議院の解散により廃案になりました。民主党政権時代の2012年には、人権委員会設置法案が内閣提出の法案として提出されたが、これも衆議院の解散により廃案になりました。部落問題に関する根拠法がない状態が続いていた中で、二階先生から、部落問題についての法案をつくってくれと言われたわけですが、当時自民党に合流して間もない私に果たしてできるだろうか?との不安は有ったものの、二階先生から、「私がついているから、一歩でも前に出るように頑張ってくれ」と言われ、「承知しました」としか言いようが有りませんでした。

自民党内で、「部落問題に関する小委員会」を何度も開催してヒアリングを重ね、立法に足る事実が有るかどうか、即ち、立法事実の確認作業を重ねた結果、結婚、就職等で部落差別は残っている、存在するとの認識に至り、法案を作成しました。

法案作成作業の過程においては、それまで「部落差別」という語を法律で使ったことはないので、どうするか?ということが有りました。法律用語として、それまでは「同和問題」という語しか使われていませんでした。しかし、問題を直視しなければ解決はできない、部落差別をなくそうという目的の法律を作成しようとしているのだから、それまでの通例にとらわれずに、あえて「部落差別」という語を使いました。

ただ、自民党内における議論をまとめるにあたり、「人権委員会」及び「財政措置」についてはどうしても合意が得られず、「理念法」として法案をまとめた次第です。しかし、何もアクションがないのは寂しいと思い、法案の最後に第6条として「実態調査」という項目を加えた次第です。

2020年、それまでは法律に規定がなかった所謂あおり運転について、私は自民党の「交通安全対策特別委員会」の事務局長として、ドライバーの皆さんが安心して運転できるように、不幸な交通事故がなくなるようにとの願いから、あおり運転防止の為の立法について問題提起、議論を重ね、かなり迅速に、同年(2020年)6月の道路交通法の改正に至り、「妨害運転罪」を創設しました。

これにより、あおり運転は「妨害運転罪」として明確な取締り対象になるとともに、罰則が大幅に強化されました。前の車との車間距離を異常につめたり、急ブレーキをかけて嫌がらせしたり、急に車線変更して割り込んできたり、不必要なパッシング・ライト、執拗なクラクション、幅寄せ、蛇行運転、等があおり運転と判定されると、即、免許取り消しになります。ドライブレコーダーの映像が決め手になります。

あおり運転の立法化と同時に、自民党の「交通安全対策特別委員会」では当時、社会的に注目を集め始めていた高齢ドライバーによる事故防止のための方策を議論させていただきました。その結果、2022年度を目処に、75歳以上の高齢ドライバーを対象として、サポカー(セーフティ・サポートカー)に限定した運転免許が創設されることになりました。兵庫12区のような中山間地域では交通の便が良くなく、高齢者の方々にとって移動手段の確保に役立つようにとの願いを込めて提案させて頂きました。

① 姫路駅の駅ピアノ

姫路駅に駅ピアノを置かせて欲しいとの要望を頂き、JR西日本にお願いに行き、今、姫路駅の構内に駅ピアノが置かれるに至っています。時々弾いている方を見かけると、嬉しくなります。また、駅ピアノを弾くためにこっそり猛練習している中高生などの若い人も多くおられるとの話も聞き、頑張った甲斐が有ったと思います。

JR姫路駅ステーションピアノ | 音楽のまち・ひめじ (himeji.lg.jp)

特に上郡の方々からICOCAが使えるようにJRに頼んで欲しいとの要望を頂き、JR西日本にお願いに行きましたが、すぐには受け入れられず、これまたJR西日本に何度もお願いに行き、2018年に実現となりました。

2021年、環境大臣を拝命、環境大臣として在任中(2021~22年)にいくつかのことを実現した中でも、「脱炭素国債20兆円」は今後の日本経済に大きな効果をもたらすと思います。世間では「GX債」等と呼ばれていますが、中味は「脱炭素国債」です。

その実現のために、「脱炭素を制する者は、次の時代を制する」の合言葉の下、47の全都道府県をまわる「全国行脚」もやり切りました。その際、脱炭素国債は、いわゆる「カーボンプライシング」(石油、石炭等を使い二酸化炭素を排出することに対して、対価を払う仕組み。これにより二酸化炭素の排出を抑えようとする)との抱き合わせではじめて成り立つとの「グランド・ストラテジー」論を強調してまわりました。

大臣就任早々の取材(ブルンバーグ誌)で「イノベーション国債200兆円」の提案を打ち上げたのが始まりです。日本中で脱炭素に取り組むためにはそれ位必要だと思ったからです。最終的には20兆円になってしまいましたが、世界で5000兆円と言われるESGマネーにアピールすることにより、その一部なりとも呼び込めば、何倍にもなり得るかと思い、手を打ちました。

大臣になる前から、イノベーションについて選挙区でも訴えていましたので、有言実行のつもりで頑張りました。二階先生の教え、「言ったことは必ずやれ。やれないことは言うな。」を実践したまでです。この脱炭素国債は、2022年につくり、2023年に準備し、2024年いよいよ動き出します。

その他、環境大臣在任中に、「脱炭素先行地域」の選定、「脱炭素化支援機構」の設立等々、脱炭素についていくつものことを実現しました。

【COP26での1.5度目標合意実現】

2021年、環境大臣として陛下に認証頂いて直ぐに羽田空港に直行、チャーター機でイギリスのグラスゴーで開催されていたCOP26(世界の環境大臣が集まる国際会議)に合流、10以上の国の大臣と折衝して、脱炭素の市場メカニズムに関する日本提案を根回しする中で、産業革命前からの比較で気温を1.5度上昇までに抑えるという全体の合意形成に貢献しました。

2021年末から、自民党の派閥パーティを発端とする問題に関連して、私が所属する志帥会(二階派)にも東京地検の強制捜査が行われる等、様々なご心配をおかけしてしまったと察しますが、私自身に関しては、「真っ白」です。政治資金について常に確認を重ねながら厳格に法令に則って収支報告書に記載をしています。

派閥に関して、私が2020 年12月から10カ月ほど事務総長の役を担っておりましたので二階派幹部だったということで、ご心配頂いた面も有ると察しますが、事務総長として担っていた業務は派閥内の会合の調整や若手議員の指導育成であり、派閥の資金関係については全く関与していませんでしたので、何らやましいことはありません。

政治家への途を志す決意を固め、イギリス勤務を終えて離任する際、フィナンシャル・タイムズの敏腕ジャーナリストとしてならしたジョージ・ブルさんが貴重な言葉を贈ってくれました。「政治は最も高貴な仕事である。」(Politics is the noblest job.)という言葉です。これは、私が、最も大事にしている言葉の一つです。イギリス人らしい少しひねった表現で、政治の世界はだましだまされという醜い権力闘争もあったりするだろうが、人々の幸せを願って仕事をさせてもらえるという意味で高貴な仕事だ、という趣旨だと解しています。その気持ちを忘れないように、ということでブルさんが「はなむけ」に贈ってくれたのでしょう。私はこれまで、この言葉どおりの気持ちで政治の仕事に携わってきましたし、これからもずっとそうです。そして、未来は変えられるとの信念を持ち、希望に満ちた未来を人々のために創りたい、それが私の願いです。

裏金云々の話と私は無縁です。

私にとってアメリカは特別な国です。14 歳の時に神戸 YMCA のプログラムでアメリカのシアトル YMCA の中高生キャンプに参加するため初めて渡米したときに、異文化が交わり心が一つになる時の大きな感動を経験しました。多感な少年時代に受けたその感動が私の人生を導き、外交官へと、そして政治家へと道を歩ませてきました。外交官試験は三度目の挑戦で何とかをクリアし、ようやく外務省に入省後、留学研修先はアメリカとなりました。外務省のいわゆる「アメリカン・スクール」の一員となったわけで、アメリカが大好きな私としては、本当に嬉しく、青雲の志に燃えました。外務省からの留学先は、首都ワシントンD.C.にあるSAISというジョンズ・ホプキンス大学の国際関係論の大学院でした。せっかく世界の中心とも言えるワシントンD.C.に来たのだからと、本当によく学ぶとともに、しばしば自宅でパーテイを開き、多くの友人もつくりました。

ちなみに、私の博士号はSAISのナサニエル・セイヤー教授から頂いたものです。SAISには当初1年間の修士コースでの留学予定でしたが、セイヤー先生に次の学校について相談したところ、是非SAISに残ってセイヤー先生の指導の下、博士号を取ってはどうかと言って頂き、先生には、多忙な本省で仕事しながらでは無理ではないかと思うと申し上げましたが、セイヤー先生自身も国務省で勤務しながらコロンビア大学から博士号を取ったのだから大丈夫と励まされ、柄にもなく挑戦することになった次第です。

2年間のワシントンD.C.での留学の後、帰朝を命じられ東京での本省勤務となりました。本省勤務は激務を極め、海外との時差、国会対応等で、毎日、夜中の二時三時の帰宅、徹夜勤務もしばしばの中で、博士論文の執筆作業を、二時に帰宅したら三時まで、三時に帰宅したら三時半まで、こつこつ続けました。今から思えばよく続いたものだと思いますが、とことんやって、7年かけて何とか書き上げ、博士号を頂きました。

テーマは、セイヤー先生からの提案で、吉田茂を選びました。当初は、迂闊にも何故そんな過去の人物のことを?と若干不思議に思いましたが、調査を重ね執筆作業を続ける中で、吉田茂こそが戦後日本の国家戦略の根本を日米安保条約という形で「吉田路線」としてつくり上げた張本人だということに気付くに至りました。それが今の私の視点の根幹を成しているわけで、セイヤー先生にはいくら感謝しても感謝しきれません。

セイヤー先生は、若き日にライシャワー大使の元で東京のアメリカ大使館で報道担当の仕事をしていた際に、若き中曽根康弘衆議院議員と夜な夜な赤坂で飲み明かしていたということです。中曽根康弘さんが総理になられた時、アメリカのレーガン大統領との間で「ロン・ヤス」の関係を演出し振り付けたのはセイヤー先生でした。

セイヤー先生は私が衆議院議員選挙を目指して活動を始めた頃、ワシントンD.C.から自費で遠い兵庫12区までわざわざ足を運んで、集会の場で、私がアメリカと格別のコネクションを持っていることを選挙区の方々にお話ししてくださったことを思い出します。セイヤー先生の深い愛情を思うと、涙が出てきます。セイヤー先生の不肖の弟子として、日米の、そして太平洋の懸け橋となるよう益々精進してまいりたいと存じます。

そして今、私の長女はアメリカ人と結婚してアメリカに住み、日米合作?とも言うべき元気な女の子たち(私にとっては孫娘たち)にも恵まれています。

これら全てを含めて、私は心底アメリカが大好きです。個人的な万感の想いも込めて、これからも、日本の国家戦略にとって最も大事なことは、アメリカと「組む」ことだと固く信じています。イアン・ブレマー等の国際政治学者たちが「パックス・アメリカーナ」の終焉あるいはアメリカの相対的な力の低下を指摘する今日ですが、日本が「役割分担」も行い、時にアメリカを支えていくことにより、共に世界の平和と繁栄を創り上げるビジョンを大事にしたいと考えています。

留学先がジョンズ・ホプキンス大学という縁で、私は新渡戸稲造に強い親しみを感じています。新渡戸稲造は、ジョンズ・ホプキンス大学への日本人留学生の第一号であり、「我、太平洋の架け橋とならん」という言葉を遺しています。初めてこの言葉に触れた時には本当に魂を揺り動かされました。外交官という仕事を選んでいたということもあり、自分の一生はこの為に捧げようと心に刻み込んだ次第です。

この、「我、太平洋の架け橋とならん。」という言葉には、強い自立的な意志も感じられます。吉田路線はある意味で対米依存の戦略ですが、「パックス・アメリカーナ」の終焉が言われる現在の文脈においては、日本は自国の安全保障について、もっと自分で責任を持つこと、場合によっては世界の平和と繁栄を創ることにより、自らの平和と繁栄を創るとの発想が促されていると思います。それは、「吉田路線」を超える国家戦略の模索であるとも言えるでしょう。その点で、「我、太平洋の架け橋とならん。」という言葉は、大きなインスピレーションを与えてくれます。日本が自らの意志で太平洋の架け橋となり、太平洋全体をネットワークで「つなぐ」ことにより、平和と繁栄を創るビジョンが浮かび上がるからです。

即ち、今や日本とアメリカは、政治、経済、社会、文化等々万般に渡って互いに緊密につながり、お互いの間に戦争など全く考えられなくなりました。私は、日米のみならず太平洋全体を視野において、太平洋の架け橋とならんとの志で、アジア・太平洋全体をネットワークで「つなぐ」ことによって、「太平洋(Pacific Ocean)」を文字通り「平和の(pacific)海(ocean)」とする働きに、自らを捧げたいと強く願っています。

更にTPP11、ASEAN、RCEP、及び私の構想である「北東アジア連携」のネットワークをつないで、「切っても切れない縁」を張り巡らせていくとともに、民主主義どうしでは戦争は起こらないことを念頭に、民主化支援を行うというアプローチは、日本のみならず世界全体の平和と繁栄の実現に繋がっていく大戦略たり得るだろうと思います。それがこれからの日本の重要な戦略目標となり得るはずです。その実現は決して簡単ではないかもしれませんが、違いを受け容れることで進化してきた日本ならではの役割であり、それこそが日本の使命たるべしと感じています。

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