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東大法学部には現役で合格しましたが、外交官試験は苦労して3度目にやっと合格しました。外務省では米国研修組、いわゆる「アメリカ・スクール」となり、大好きなアメリカですから、本当に喜びました。

外務省での仕事は、本当に激務で、大変でしたが、今しっかりいろいろな仕事に取り組めるのは、外務省で鍛えて頂いたおかげです。特に本省では、毎日深夜2時3時はほぼ当たり前で、終電前に帰れるのは例外的でした。各省とのいわゆる「合議」と言われる折衝、海外との時差を抱えての作業、国会答弁作成作業等々、朝までやることもしばしばでした。世間で「外交官」と聞いてイメージするのは、優雅な仕事ぶりかもしれませんが、実態は全く異なり、泥だらけになって仕事をしていたという感覚でした。

一生懸命仕事をしたおかげか、外務省の先輩、同期、後輩のみんなから今も本当に大事にして頂き、心から感謝です。

【経済局国際機関第二課】1979~1980

外務本省での最初の配属は、経済局の国際機関第二課で、パリにあるOECDという先進国の国際機関を担当する課でした。そこで私は、「環境委員会」を担当し、環境関連の様々の会議に向けて、日本としての「対処方針」を当時の環境庁や通商産業省と相談しながらまとめて、発電することが主な仕事でした。環境庁と通産省とはあの頃は犬猿の仲で、まとめるのは大変でしたが、私の仕事のやり方の基礎はあの頃に出来たと思います。

【アメリカの大学院(ジョンズ・ホプキンス大学SAIS)に留学】1982~1984

外務省から、アメリカのワシントンD.C.にあるジョンズ・ホプキンス大学のSAISという国際関係論の大学院に留学させてもらいました。そこで恩師ナサ二エル・セイヤ―先生とめぐり会い、結局Ph.D.(博士号)まで頂きました。Ph.D.については、安全保障はアメリカに頼り日本は経済に集中するという戦後日本の国家戦略とも言うべき「吉田路線」の基となる日米安全保障条約を、吉田茂がどのようにつくったかについて書きました。

吉田茂は、日本としてアメリカに基地を提供することと引き換えに、アメリカに日本を守ってもらうという図式を描きました。その意味で、日米安保条約における第一のポイントは、アメリカの対日防衛約束(defense commitment)を取り付けることにあったと言えます。

ところが、アメリカ(ペンタゴン)は対日防衛約束に否定的でした。当時のアメリカとしては、冷戦下における次の大戦はヨーロッパで起こると予想し、アジア、とりわけ極東の日本に防衛コミットさせられることは避けたかったのです。1951年の安保条約の交渉の最終盤で、アメリカから所謂「極東条項」が提案され、日本側はそれが対日防衛コミットメントをゼロにするものとは見抜けず、OKしてしまい、1951年の安保条約にはアメリカの対日防衛コミットメントは条約の文言上は含まれませんでした。

条約の文言上のアメリカの対日防衛コミットメントの取り付けは、1960年の安保改定によって成し遂げられました。日米安保条約の交渉に関しては、日本の同盟政策として、アメリカの対日防衛コミットメントを確保することが核心部分でした。この経緯からして、日米安保条約は、アメリカから押しつけられたものではないということも、確認できると思います。

吉田茂の安保条約のもう一つのポイントは、アメリカから提案(要求)のあった「統合司令部」を拒否しきったことです。日米が対等なパートナーであるとの建前をあくまで貫く観点からです。

アメリカ側のダレスは、自分は今、アメリカの上院でサンフランシスコ平和条約と日米安保条約の批准作業のために汗をかいているが、日本がもし「統合司令部」にどうしても同意しないというのであれば、両条約の上院での批准作業から手を引く、したがって日本は占領状態に戻るのか、という圧力までかけてきました。最終的に、アメリカ側において、国務省が国防総省に対して、この件で日本側にあまり圧力をかけ過ぎるとよくないと説得して、「統合司令部」は行政協定の案文から削除されました。 吉田茂はよくぞ「統合司令部」を断りきったと思います。アメリカからのプレッシャーを受けて土壇場で悩みながらもそれを乗り越えた吉田茂の気概は見習うべきところが多いと、私は常に自分に言い聞かせています。 ジョンズ・ホプキンス大学卒業の大先輩にあたる新渡戸稲造さんの「我、太平洋の架け橋とならん」との言葉に初めて触れた時、本当に魂を揺り動かされました。既に外交官となっていた私は、太平洋の架け橋になりたいとの強い願いを心に刻み込みました。

【経済協力局政策課】1982~1984

2年間の留学後、直ちに本省勤務となり、配属は経済協力局の政策課でした。政府開発援助(ODA)の国別政策の策定、国会答弁とりまとめ等々が仕事でした。当時の通産省、大蔵省等との激しいやり取りを思い出します。

【防衛庁防衛局運用課】1984~1986

その後は、当時の防衛庁に外務省から出向となりました。出向先は防衛局運用課というところで、「部員」(参謀本部員の名残り)として航空自衛隊の担当でした。外務省の仕事と少々異なり、実際の部隊の動きに関連して、当時の運輸省航空局との調整、領空侵犯事案についての外務省との連携、国会対応等の仕事でした。

一番大変だったのは、1983 年に起きた大韓航空機撃墜事件の後始末でした。1985年の通常国会の予算委員会の冒頭から、大韓航空機撃墜事件について、日本政府に過失はなかったのか?の観点で、遺族の方々の意向を受けた野党の重鎮議員が、おそらく自衛隊OBのサポートも得ながら、徹底的に防衛庁を責めてきました。特に大韓航空機撃墜事件のレーダー航跡について執拗に責められました。国会答弁の対応も大変でしたが、質問主意書も異常に多く出されたりして、本当に地獄のようでした。そもそもレーダー・システムの仕組みについても全く素人の状態から始めたため、どうなることかと思いましたが、約半年の格闘の後、レーダー・システムについても専門的知識を蓄積し、何とか乗り切ることができました。

区切りのついた頃、防衛局長室に呼ばれたので行ったところ、「扉を閉めろ」と言われます。そして局長は私をじっと見ながら、「大変な中、よく乗り切ってくれた。一つ間違えれば防衛庁は解体させられていたかもしれない。まさに防衛庁存亡の危機だった。よく守ってくれた。このとおり、礼を言う。ありがとう。」と言われました。いつも叱られてばかりいた私としては、予想もしてなかった局長の優しい言葉に少々驚きましたが、もちろん嬉しかったですし、少し目頭が熱くなりました。局長が何を念頭に置いて「防衛庁は解体させられていたかもしれない」と言っておられたのかは察しましたが、お互いそれは口にしませんでした。私は少々報われた気持ちになって、「過分のお言葉、恐縮です。局長、お疲れ様でした。」と言って局長室を退出しました。あれから約40年、防衛庁は六本木から市ヶ谷に移り、「防衛省」に格上げとなって、その庁舎は立派にそびえ立っています。 戦場経験こそ無いものの、耳学問や机上の空論にとどまらず、当時の防衛庁に「部員」として出向したことで防衛の現場も経験させてもらい、国防の「土地勘」を身に付けさせて頂いたつもりです。防衛庁出向の 2 年間がご縁で、陸海空及び内局に多くの友人を得ることができ、今でも、そのつながりを大事にしています。

【経済局国際経済第一課】1986~1987

防衛庁から外務本省に戻り、経済局でヨーロッパとの経済関係を担当する課に配属になりました。ヨーロッパとの時差(8~9時間)も有るので、現地の大使館と連絡を取りながらの仕事は、通産省等との調整も含めて、毎日深夜零時を超えての帰宅でした。

【情報調査局安全保障政策室】1987~1989

「首席事務官」として、英語の資料の分析、日本の安全保障政策の企画等々、ここでも毎日深夜まで、よく頑張りました。

アメリカ留学から帰国後、本省の激務をこなしながら、ジョンズ・ホプキンス大学大学院のSAISに提出する博士論文の執筆作業を続けました。毎日、夜中の二時三時の帰宅あるいは徹夜勤務もしばしばの中で、二時に帰宅したら三時まで、三時に帰宅したら三時半まで、こつこつ書き続けました。今から思えばよく続いたものだと思いますが、とことんやって、7年かけて1989年のこの頃何とか書き上げ、博士号を頂きました。

【在中国日本国大使館】1989~1991

天安門事件(1989年6月)の直後の8月に中国在勤となり、北京の日本大使館に赴任しました。在中国大使館では経済部の所属で、経済部は中国への政府開発援助(ODA)も所管していたことから、無償資金協力では環境分野における援助、東北医科大学等の医療分野における協力等々に携わりました。また、当時は鄧小平さんの改革開放政策が華盛りの頃で、その動向について報告電報を書いたりもしていました。当時は、天安門事件の後、先進諸国は中国への援助をストップしており、私の極秘ミッションは、その再開の道筋を探ることでした。その為に、アメリカ大使館、イギリス大使館、オーストラリア大使館等々と頻繁に連絡を取り、それらの国から大臣の訪中の予定が有るか等についてアンテナを張って、本省に報告電を送ったりしていました。結果として、中国に人権についてよく配慮するとの言質を取った上で、対中援助再開となりました。

当時の日本もアメリカ等の西側諸国も、中国が発展すれば民主的な傾向を強めるだろうとの期待のもとに、鄧小平の改革開放政策に対して、資本、技術等を提供したわけです。私は、中国内部には民主化の芽がかなり育っているように思うし、それは決して摘み取られていないように思います。その辺についての見方はアメリカと日本の間で温度差が有るかもしれませんので、アメリカとの間で緊密なコミュニケーションを重ねることが重要だと思います。

ちなみに、私が北京の日本大使館に勤務していた際の運転手さんは、以前にラスト・エンペラー溥儀の運転手をしていたり、後にアメリカ大統領になるブッシュさんが北京で大使として勤務していた際に運転手をしていたそうで、ブッシュさんとの記念のツーショットも見せてくれました。北京を離任する際、この運転手さんから、「自分は中国の皇帝だった人の運転をしていた。アメリカの大統領になる人の運転もした。あなたは同じ匂いがする。」と言われて、反応に戸惑ったのを思い出します。その時は、後に政治家を志すことになるとは全く予想だにしていませんでしたから。

【在パキスタン日本国大使館】1991~1993

北京の後は、パキスタン赴任を命じられ、北京空港から直接イスラマバード空港に飛びました。パキスタンでの大使館勤務は、イスラム圏での生活ということで、共産圏の中国とは異なる意味での窮屈さはありましたが、当時のムジャヒデインと呼ばれる人たちとの接触、あるいはカイバル峠を越えて隣のアフガニスタンまで国連の地雷除去プロジェクトの視察に行ったりしたこと等も含めて、今となっては、これからの世界がイスラム勢力とどのように向き合っていくのかを考えるに際して、大事な土地勘となっています。大使館の政務班長として、アメリカ大使館との情報交換、パキスタンの核開発に関する情報収集、それに関連した情報入手のための北朝鮮大使館との極秘接触等々、自分なりに存分にやりました。

【在英国日本国大使館】1993~1995

中国、パキスタンでの大使館勤務の後は、イギリスのロンドンでの日本大使館勤務を命じられ、楽しかったイスラマバードを後にしました。ロンドンでは広報班の所属で、合間を縫って、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学等々、イギリスの大学で日本外交について講演もしました。 しかし、ロンドン勤務の間に、予想もしなかった人生の転機を迎えます。仕事の一環として、日本の有力な政治家の方がロンドンで滞在される間アテンドすることになり、それがご縁で政治家への転身となりました。苦労して外交官試験を突破した私としては、当然最後まで外交官を務め上げるつもりでしたが、実際に外務省で勤務してみると、官僚は政治家にペコペコして言いなりになっていることに大きく失望していたことは確かです。とは言うものの、今から思えば、当選するかどうかも分からない(現に初めの総選挙では落選)のに、せっかく苦労して入った外務省を辞めるという随分無茶な決断をしたものだと思います。妻の牧子が信じてついてきてくれていることに改めて心から感謝です。

【総合外交政策局国際科学協力室室長】1995

1995年の夏に帰朝命令が出て、国際科学協力室の室長を命じられました。国際宇宙ステーション等の調整が仕事でした。


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